立憲民主党の枝野幸男代表は、衆院選が始まる前から終始、アベノミクス批判を続けている。批判のポイントの1つが実質賃金の低下で、これは俗耳に入りやすい。コロナ禍で困窮している人にとっては尚更であろう。
今回、立民が小選挙区で健闘している理由の1つに、候補者一本化の効果に加えて、この直感的に分かりやすいアベノミクス批判があるような気がする。
単純なフレーズを繰り返すことで支持を獲得する手法は、ポピュリズムに通じる。なぜなら、単純化された批判が俗耳に入りやすいのに対し、それに反論するのはそう簡単ではないからだ。ひと言で反論できるならいいが、なかなか難しいのである。
■「民主党政権の時の方が実質賃金は高かった!?」(枝野代表)
かつて枝野代表は「民主党政権の時の方が実質賃金は高かったが、アベノミクスで実質賃金は下がった」と批判したことがある。2020年1月22日の衆院代表質問での安倍首相(当時)とのやり取りを毎日新聞(ウェブ)が報じている。
立憲民主党の枝野幸男代表は代表質問で、物価変動の影響を除いた「実質賃金」について「安倍首相が『悪夢』と言う(民主党政権の)時期は回復傾向にあったが、2013年に大きく下落し回復の兆しを示していない」とアベノミクスを批判。これに対し首相は、物価が上昇すれば実質賃金は減少する▽民主党政権下でデフレが進行していた――と指摘しつつ「ことさら実質値の改善を持ち出すのはデフレを自慢するようなものだ。そろそろ、そのことに気付いた方がよろしいのではないか」と突き放した。
これは安倍元首相の切り返しが冴えていた。枝野氏が「民主党政権の時の方が実質賃金は高かった」と批判したところ、「デフレ自慢だ」と一蹴したのである。
これは全くその通りで、立憲民主党が「衆院選公約2021」で掲げているグラフを見ると、枝野氏が言うように2010年、11年は実質賃金指数は上昇している。
ところが、この時期、消費者物価指数は「総合」で見ても、「生鮮食品を除く総合」「持家の帰属家賃を除く総合」で見ても下落していた。つまり、デフレが進行していたのである。総務省統計局「消費者物価指数(CPI)の結果」から2015年を基準とする長期時系列データを取り出してみた。(参考:労働政策研究・研究機構「物価」/物価上昇率は総務省統計局の「最新の月次結果の概要 2020年基準消費者物価指数 全国」の「統計表」から探せる→「中分類指数(全国)」>「年平均」)
98.6(2008年)→97.2(09年)→96.5(10年)→96.3(11年)と総合物価指数は低下しており、生鮮食品を除く指数でも、持家の帰属家賃を除く総合でも、指数の下がり方はほぼ同じである。
デフレの結果として失業率は上昇した。失業率の年次推移を見てみよう。
上のデータは、労働政策研究・研修機構の「完全失業率、有効求人倍率」に統計表がリンクされており、そこから取った。完全失業率は、総務省統計局「労働力調査 長期時系列データ」掲載の「表2 年平均結果―全国」のエクセルデータが出所。
これによると、2009年、2010年の失業率はその前後の時期と比較して5.1%と突出して高い(東日本大震災のあった2011年は暫定的な数字)。
物価水準が下落すれば、名目賃金が一定でも実質賃金は上がる。労働者は実質的に豊かになったように見えるが、実際には失業者が増え、デフレに特徴的な現象が現れていたわけだ。実質賃金の数値だけを取り上げて「民主党政権の時の方が(アベノミクスの時よりも)実質賃金は高かった」と言うのは、木を見て森を見ずの批判で、安倍首相(当時)に「デフレ自慢」と反論され枝野氏はぐうの音も出なかったと思われる。
■失敗に懲りたのか、言い方を変えた枝野代表
この時の失敗を反省したのか、今回の衆院選で枝野代表は言い方を変えてきた。
党首討論や演説などでよく聞くのがこの3点である。残念ながら温厚な岸田総理は、目の前で枝野代表がこういった発言をしても、安倍元首相のように反論をしない。できないのかもしれない。論争が得意でないことと、ひと言で反論するのが難しいという事情もあると思う。
しかし反論しないと声の大きい方が正しいと思われてしまう。額面通りに受け取れば、アベノミクスは失敗だったように聞こえるからだ。自民党は岸田総理が直接、反論しないのなら、経済に強い議員が公の場できっちり批判、反論すべきだった。
もちろん、アベノミクスを支持する識者は批判、反論している(たとえばエコノミストの永濱利廣氏、元内閣府参与の高橋洋一氏ら)。
分かっている人は分かっているはずだが、何しろ全国民を巻き込んでの選挙である。党の有力者が誤りを正し、全国紙やマスコミに大きく取り上げられるようでないと、枝野発言の影響力をそぐのは難しい。
■「雇用は増えたかもしれないが、ほとんどが非正規だ」への反論
アベノミクスで雇用は大幅に増えた。立憲民主党や共産党は「雇用は増えたかもしれないが」と、まるで大したことないような言い方をするが、これはアベノミクスの誇るべき成果だ。
永濱利廣氏は「非正規雇用に対する誤解」(2020年10月19日)で次のように述べている。
2013年1月以降の正規・非正規の従業員・職員数に独自の季節調整をかけて推移を見ると、2019年末にかけて正規が+175万人に対して、非正規が+349万人の増加となる。
正規・非正規それぞれの推移の特徴としては、非正規はアベノミクス始動直後の2013 年初頭から大きく増えた。そして、2回目の消費増税となる2019年10月から減少に転じている。一方の正規で見れば、2014年3月にようやく増加に転じ、コロナショック後の 2020年4月まで増加基調を維持していることがわかる。
アベノミクスで雇用者数は500万人以上増えた。しかもこの増加は、少子化によって生産年齢人口(15~64歳)が減少するなかで起きている。内閣府「安倍政権6年間の成果と課題」(2019年1月18日)に次のようなグラフが出てくる。
生産年齢人口が291万人減った2001年~2007年は就業者が15万人増えたにとどまり、同じく154万人減った2009年~2012年は就業者も34万人減った。
ところがアベノミクスが始まった2012年から2017年を見ると、生産年齢人口が451万人減ったにもかかわらず、就業者は251万人も増えている。これは何を意味するのか?
生産年齢人口が減ると企業は人手不足に陥るが、だからといってひとりでに雇用が増えるわけではない。アベノミクスで経済が成長したから雇用が大幅に増えたのである。
この事実は何人も否定できないアベノミクスの実績だ。しかし野党は、増えたのは非正規ばかりだと非難する。本当にそうだろうか?
永濱氏は正規雇用が175万人、非正規雇用(パート、アルバイト、派遣社員、契約社員、嘱託など)が349万人増えたとしており、非正規の割合は3分の2である。これをもって「非正規ばかり」とけなすのは、正当な批判とは言えない。
しかしもっと大きな問題がある。
野党側は非正規雇用の増加を「彼らは本当は正規で働きたいのに、やむなく賃金の安い非正規で働かざるを得ない。非正規の人たちはみんな困窮している」というニュアンスで批判するのだが、実態は全く違う。
非正規雇用を選んだ人たちの動機は様々だ。永濱氏は総務省の調査結果を使って、非正規を選んだ動機を次のように整理している。
- 自分の都合の良い時間に働きたいから
- 家計の補助・学費等を得たいから
- 家事・育児・介護等と両立しやすいから
- 通勤時間が短いから
- 専門的な技能等を生かせるから
- 正規の職員・従業員の仕事がないから
- その他
このうち、問題となるのは6の「正規の職員・従業員の仕事がないから」である。
それ以外は、非正規という身分で働くことを自ら望んだ人々である。本人が自ら望んで非正規になったのに、外野が「非正規にするのはけしからん」と非難してどうするのか。
当人たちにすれば、余計なお世話以外のなにものでもない。
確かに、正規の職員・従業員の仕事がなくて非正規になった人(=「不本意非正規」と呼ぶ)は、非正規という身分に強い不満を持つだろう。こういう人は、できるだけ早く正規雇用に移行できるように後押しする必要がある。
では、アベノミクスで「不本意不正規」の割合は増えたのだろうか、それとも減ったのだろうか? 答えは「減った」である。それも著しく減っている。
厚生労働省作成の資料「非正規雇用の現状と課題」(PDF)によると、2013年に342万人いた「不本意非正規」雇用者は、2019年には236万人にまで減少した。非正規雇用全体に占める割合は19.2%から11.6%まで下がっている。
具体的な数字は資料によって若干異なるが、どれもそんなに差はない。「定点観測 日本の働き方」というサイトは、2020年4月版で2019年の不本意非正規を236万人、割合を10.6%としている。
同サイトもまた、アベノミクスの下、不本意非正規の数も割合も右肩下がりで減少したグラフを載せている。
永濱氏の次の結論は重要だ。
確かにアベノミクス以降も非正規雇用者数は増えているが、肝心の「正規の職員・従業員の仕事がない」は、2019年までに100万人以上減っていることがわかる。これは、正社員の増加を加味すれば、100万人以上の不本意非正規労働者が正社員になることができたことを意味している。
また、大きく増加している理由を見れば、「自分の都合の良い時間に働きたい」が最も多く200万人近く増えているが、「家事・育児・介護と両立しやすい」も70万人以上増えていることがわかる。
そして何よりも、全体の非正規雇用者のうち、不本意で非正規となっている従業員の割合が高くないことが重要だ。つまり、2019年時点での非正規労働者2165万人のうち不本意で非正規となっている労働者は236万人であり、理由を無視して非正規労働者数の増加のみで判断すると、労働市場の改善の判断を誤ってしまうことになりかねない。
このように、アベノミクス以降の非正規労働者数が拡大した背景には、自分の都合のよい時間に働きたい労働者が増えたことがあり、むしろ正規の職員・従業員の仕事がないから仕方なく非正規で働く職員・従業員は100万人以上減ったことがある。このように、経済指標の表面だけのデータを基に経済状況を判断しようとすると、経済政策の判断を誤る可能性があり、多くの国民が経済成長の恩恵を受けられなくなる可能性がある。
「経済指標の表面だけのデータを基に経済状況を判断しようとする」。これをやっているのが立憲民主党の枝野代表をはじめ、多くの野党議員である。
データの意味するところを正しく理解すれば、枝野代表の言う「アベノミクスは明日の仕事があるかも分からない非正規(労働者)を山ほど増やした」が誤りであることは明白である。
枝野代表は「アベノミクスで良くなったのは株価です。一部の大企業だけです。一部の大企業だって、じゃあ従業員を、非正規は正規にして安定させたのか」と問うているが、答えはイエス、「安定させた」だ。
そう、(永濱氏に言わせれば)100万人以上の不本意非正規雇用者を正社員へと移行させたのである。
枝野代表のように、ただただ政権を打倒したいためだけに、恣意的にアベノミクスをスケープゴートにし、誤った経済判断をして政策を立案すれば、「多くの国民が経済成長の恩恵を受けられなくなる」だろう。(この項、続く)