回り灯籠

憲法9条を改正して新しい日本を築こう

連休後半、鎌倉の大河ドラマ館へ行く

連休の後半、家内の希望で鎌倉の大河ドラマ館へ行ってきた。『鎌倉殿の13人』は家内の職場でもよく話題になるらしく、大河ドラマ館へ行って(鎌倉観光もして)面白かったという話があったので、行ってみたいと言う。

taiga-kamakura.jp

連休中は大混雑だろうと思ったが、コロナ変異株の再流行でいつ行動制限が始まるかわからない。行けるときに行っておこうということになった。

鎌倉文華館鶴岡ミュージアム大河ドラマ

大河ドラマ館は、鶴岡八幡宮の境内にある鎌倉文華館鶴岡ミュージアムという近代的な建物に開設されていた。

印象に残ったのは大蔵御所のジオラマ。御所と言えば天皇のお住まいと思い込んでいたが、今回の大河ドラマで武士の御所もあるんだと初めて知った。頼朝の邸宅兼政務を行う施設である。

かなり精巧にできていて写真に撮りたかったが、撮影不可だった。なんでだろう?

うまくできているだけに、写真に撮らしてくれないと記憶に残せない。見てまだ1週間も経っていないのに、早くも記憶が薄れつつある。釣殿(庭や池を眺めながら宴を催す所)や八角堂(祈禱する所)のほか、御家人の詰め所もあったと思う。

頼朝、義時、政子、義経がドラマで着た衣装を間近に見ることができ、これはよかった。こちらは解説も含めて撮影可。等身大の義時や義経と並んで写真を撮ることもできる。

屏風を背に畳の上に座り、4種類ある烏帽子のどれかを選んでかぶり、写真を撮るスペースがあった。これは好評のようで、家族連れやカップルはみんな思い思いの烏帽子を着けて写真を撮っていた。

番組で使った小物類の展示も面白かった。梶原景時に成敗された上総広常が書いた下手くそな文書(実は頼朝の大願成就を祈る内容)や義時が頼朝に命じられて御家人たちの住まいを割り振った地図などだ。

次は大河ドラマ館の目玉の1つ。大きな壁面いっぱいに鎌倉などの風景が映し出されるというものだが、係の人の誘導がないと何をどうしていいのかよく分からない。所定の位置に立って、両手を上げると壁面いっぱいに風景が現れる。

例えば、鎌倉に入った頼朝と政子が、小高い山の上からまだ開拓されていない一帯を見渡すシーン。鎌倉の海の情景など。

壁面が大きいだけに、近くでこれを見るのは少々きつい。映画館の最前列で映画を見るような感じか。この辺、もう少し工夫が欲しいところだ。

番組制作の舞台裏を紹介する12分のミニシアターが面白かった。エバン・コールという作曲家は日本のアニメや文化に興味を持って10年ほど前に来日した人。オファーがあったときはかなりびっくりしたそうだ。才能のある外国人を積極的に採用する姿勢は好感が持てる。

最後に、出演者たちの直筆サインと簡単なメッセージがずらり。それぞれ独創的。中にはどうしてこの筆遣いでこの字になるのかさっぱり分からないサインもあった。漢字で名前を書いただけというサインの人は、もっともらしいサインを考案するのが面倒だったか、そんなことをする柄じゃないと考えたのか、とにかく俳優さんも人それぞれだということが分かった。

ガイドが解説付きで頼朝コース/義時コースを案内するプランがあるらしい

展示室から外に出ると八幡宮の池が目の前に広がり、ツツジも咲いていて心が和む。池の向こうには洋風建物の和風喫茶店が見える。あそこで窓際に座って池を眺めながらお茶を飲んだらさぞうまいだろう。

また、案内板が目に入った。それによると、土日(祝?)に限り、①頼朝ゆかりの地、②義時ゆかりの地を、1日2回、ガイドが解説付きで案内してくれる企画があるという。午後の部に参加したかったが、残念なことに、私たちが行った日は暦の上では平日。

今年一杯やっているそうだから年内にもう一回来ようなどと家内と話したが、さてどうなるか。

大蔵幕府跡の石碑、頼朝の墓、義時の墓(法華堂跡)

この後、鶴岡八幡宮をお参り。階段手前の舞台では、なんと衆人環視の中、神前結婚式を挙げていた。神社の人たちが古式ゆかしい装束で新郎新婦を先導し、巫女さんが新婦に付き添って衣装が汚れないように気を遣っている。

和の楽器で演奏する人たち(雅楽師か? 彼らも伝統衣装)もいて、風情があるなあと感じ入った。

式が終わると、参列者共々、八幡宮からまっすぐ海に向かって延びる段葛を歩いて披露宴の会場に向かっていく。段葛は桜並木の参道だが、この時期、桜は咲いていない。

次は頼朝、義時の墓に向かう。途中、大蔵幕府跡の石碑があり、すぐ側の小学校の生徒さんたちが、わざわざ碑文を大きな紙に書き写し、子供でも分かるように現代語訳を添えてガラス扉付きの掲示板に掲示してくれていた。

大蔵幕府跡からまっすぐ北に歩いて50段ほど階段を上ったところに、崖を背にして頼朝の墓が建っている。山の斜面を削ったのだろう。一帯は平地になっていて、かつては頼朝の墓所である法華堂があったという。

大河ドラマ館の解説にあったように、ここはちょうど大蔵御所を見下ろす位置にある。確かに鎌倉幕府を開いた頼朝が眠る地にふさわしい場所だ。

では義時の墓はどうなっているかというと、階段を下りて東へ進み、そこからまた同じくらいの階段を上ると、頼朝の墓所と同じように山の斜面を削ってできた平地に出る。

ここが義時の墓所(同じく法華堂)のあったところだそうだ。驚いたのは、頼朝の法華堂跡の広さよりはるかに広い。3倍くらいはありそうだ。

義時の法華堂は発掘調査によってその遺構が明らかになっている。8.4メートル四方の外縁部には白い石が敷き詰められ、柱のあったところは、それと分かるように背の低い角柱が打ち込んであった。

ただし、肝心の義時の石塔はない。頼朝の石塔も17世紀頃に建てられたものだが、後世のものであっても、塔があるとないとではインパクトが違う。

法華堂の遺構が発掘されたのはすごいことだけれど、なんとなく物足りなさを感じてしまうのだ。

北条義時法華堂跡(墓所)の発掘調査解説板

解説板の反対側(山側)から撮った北条義時法華堂跡

なお、この平地から山の斜面のかなり長い急坂を上ると、山肌をくり抜いたやぐらに大江広元の墓がある。

しばし墓所の余韻にひたった後、今度は混雑の激しい横須賀線東側から西側に移動。すると人通りも車も激減し、急に静かになった。

寂しく人影もまばらな寿福寺の政子の墓、実朝の墓

鎌倉五山の1つ、寿福寺には政子の墓、実朝の墓がある。寿福寺門前には「山門不幸」の立て札。中門までしか入れないこともあり、人影もまばら。

政子の墓、実朝の墓へ行く道は、途中崖が崩落して塞がってしまい、民家を大きく迂回して墓地の中を通って行くようにと説明書きがあった。その墓地というのが、なんともおどろおどろしい雰囲気で、江戸時代のものと思われる古い石塔がたくさん並んでいたり、苔むしていかにも古いお墓ばかり。

崖に掘られたやぐらにも、中に五輪塔や石塔を置いているものがたくさんあった。あぶだかはちがぶんぶん飛んでいる。「スズメバチ注意」の看板もあり、背筋がぞっとする。リスまで飛び出してきた。とても観光客が来るような場所ではない。

お墓の中の道を崖沿いにずっと進んでいった先に、政子の墓、実朝の墓があった。どちらもやぐら内に石塔が置かれている。

寿福寺の山門脇には「国指定史跡 寿福寺境内」の解説板があったが、ここには解説板はない。ただ、北条政子の墓、実朝の墓と筆文字の、それも字がかすれた表示板があるのみ。

寿福寺参道と中門

寿福寺境内に立つ解説板

北条政子墓のやぐら。案内板の文字は土で汚れて一部読めない。

やぐらの内部

初めて幕府を開いた初代将軍御台所の墓にしてはあまりにわびしい。実朝の墓も同様。そもそもこれらの墓が本物なのかどうかも全く説明がないため、現地に来ただけでは何もわからない。

源氏山公園の威風堂々たる頼朝像

寿福寺を後にして化粧坂切通しを上り、源氏山に向かう。山頂は開けた平地になっていて堂々たる頼朝の銅像があった。ここはよく整備されている。着いたのが夕方だったせいか、人影はまばら。

源氏山公園の源頼朝

気に入ったのは、周囲の樹木に一つ一つ名札が付けられ、木の名前が書かれていること。木を見ても、桜や松、スギ、イチョウぐらいしか見分けがつかない自分にはとてもありがたい。

近くに住んでいる人が羨ましい。

ここは鎌倉駅北鎌倉駅のちょうど中間あたり。どちらから帰るか迷った末、行きとは違う駅で電車に乗ろうということで北鎌倉に向かう。

葛原が岡ハイキングコースをたどり、途中、鎌倉幕府打倒の先駆けとなった日野俊基の墓(国指定史跡、宝篋印塔)を見て、あとは下ったり上ったりしながら、こんな山奥に民家があるのかと驚きながらひたすら歩いて駅に着いた。

北鎌倉駅にはお土産を買うような店はなく(あっても夕方で閉まっていたのかも)、土産物を何一つ買えなかったのが失敗だった。