我が国ではジェンダー平等やら男女共同参画やらで固定的な性別役割分担や意識をなくそうという運動が盛んだ。小学生のランドセルが女子は赤、男子は黒(以前はそうだった)から、「女子も男子もいろんな色が選べるようにすべき」ということで、今は豊富なバリエーションが選べるようになっている。
女子が赤色、男子が黒色で何がいけないのかと不思議で仕方がない。「赤一色は選択肢が少ないからピンクのランドセルもあったほうがいい」と言うならまだしも、「女子は赤、男子が黒にすると、固定的な性別役割意識が刷り込まれるからダメ」などという理屈はバカバカしくてとてもついていけない。
ランドセルの場合、赤も黒も一種のアイコンみたいなもので、女子と男子を識別するとともに、子供たちに自分の性別を自覚させる意味があった。多彩な色から選べるというのは、いいようで、実は子供たちから自分の性別に誇りを持つ機会を奪っている。
「ランドセルの色を女子は赤、男子は黒にするのはおかしい。固定的な性別役割意識の刷り込み、ひいては女性差別につながる」と言う人たちの狙いはまさにそこにある。
性別などというものに大した意味はなく、そんなものにこだわる必要はないというのが彼らの考えなのだろう。
ところが、母の日を迎えたアメリカでは、MLBの選手たちはこぞってピンクのスパイクやソックスを履き、ピンクのバットを振り、キャッチャーはピンクの防具を身に着けて母への敬意を表していた。
(上の動画で9回の大谷選手は普段のバットだが、初回はピンク色のバットを使っている。)
母イコールピンク色(もしくは赤)。
「母への敬意を表すのになんでピンク色なのだ。青だっていいじゃないか。いや、そもそも色にこだわるのがおかしい。各自、自由にいろんな色を身に着けよう」などと、あまのじゃくな行為に出る選手はいない。
もちろん「固定的な性別役割分担(意識)の刷り込みだ、ジェンダー平等に反する」などと野暮なことを言う人もいない。いるかもしれないがたぶん少数。だからみんな堂々とピンク色を身に着けて出場する。
女子と男子で色分けするのはごく自然なこと。それは性別がセックスであれジェンダーであれ、人間にとって重要な意味を持つからだ。